仏教には無我という言葉がありますが、どう考えても私は、我を無にすることなどできそうにありません

【欲する心】

仏教には無我という言葉がありますが、どう考えても私は、我を無にすることなどできそうにありません。へたすれば起きている時間の、9割9分、私のことしか考えていないのではないかしら。


人のことを考えているようで、まわりまわって私のことを考えているのではないかしら。私の体と接触する人がいた場合のみ、その人のことを真に考えられるのではないかしら。体をとことん動かしているときのみ、我を無にできるのではないかしら。


ところで、無我とは本来、どういうことでしょう。

大谷大学のいいサイトがありました(生活の中の仏教用語 - [167]) 


インドの思想・宗教では、身体が死滅しても、消滅することなく存続する霊的実在があると考え、これをアートマンと呼びました。このアートマンが「我」です。


仏教ではこの霊的実在(アートマン)を否定し、輪廻転生の世界から私たちを解放する『解脱の道』を明らかにしたのだそうです。


「輪廻転生なんてくそくらえ!」

「俺を、輪廻転生から外れさせてくれ~!」

ってことですね。


無我とは、我を無にすることなどではなく、

霊的実存への対立思想だったようです。


ずいぶん、私、まちがってました。


私は、輪廻転生するなんていうことを、

まったく望みませんが、子どものころに

見た地獄絵図は頭に残っています。


見たことありますよね。


さて、あの地獄絵図は、私達に何を伝えたかったのでしょう。私は、あの世に地獄があるのではなく、生きている私たちの心の中に地獄が生まれてしまうから、気をつけなさいという警告だと受け取っているのですが、どうでしょう。


インド思想の梵我一如では、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であるという考えのもと、宇宙と個人とを対応させ、「個人を知れば宇宙がわかる」と考え、身体全体を使った瞑想修行を行ったそうです。


言葉によらず、あるがままにそれをとらえ、体験でみずから体得した知識を「真理知」と呼んでそれをめざした。ヨーガとか瞑想がはじまったこのあたりからですね。紀元前5世紀。


2500年前だから100才おばあちゃんの人生25人分と考えれば、そんなに遠くない昔です。それにしても、もうずっと前から、人は苦から逃れられずに苦しんできたんですね。


強く欲する心のエネルギーや、煩悩に近いくらいの行き場のないエネルギーが、健全と調和と思いやりや慈しみの純粋な行動に向けられた時、私たちは豊かさを得て、幸せであり続けられるのではないかなあと思います。


欲する心のエネルギーが失われた時をこそ、

恐れるべきなのではないかと思います。 

 

この体で生まれた以上、この体をきちんとお世話するのは、生きている私のつとめ。自分の体に美味しいご飯とお水と運動と睡眠と喜びと安らぎを与え、きちんとお世話できるようになったら、他の人のことも真に慈しめるようになるのではないかなぁ。


まずは10秒から。

食事の前の合掌&ヘソビーム10秒から

慈しみの時間をはじめてみることをおススメしています。 


行き場のない荒ぶる心が穏やかになれます。 

今日も「よく生きた」と

思える一日を。

写真は、近ごろ人気上昇!『お~い中島くんのポーズ』  

動画リンクも張りつけておきますね。



「家事の合間に出来て気軽」「なぜ、これまでしてこなかったんだろう」「これは、いける!!」とメッセージいただいています。


猫背解消にお手軽な、背中スッキリ系プログラム。10秒間マネしてみてね。10秒ポーズのやり方は書籍の24-25ページに書いてあります。


「一生歩ける体をつくる10秒ポーズ健康法」

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